杵渕館
2016/07/21
杵渕氏は比較的古くから名の知られる武士である。
「平家物語」や「源平盛衰記」によると、
養和元年(1181)6月,
越後の城資職(じょうすけもと)が率いる平家の大軍と
木曽義仲は川中島の南、
千曲川岸で戦った。
世にいう横田河原の合戦である。
平家の武士で更級郡の人富部三郎家俊は義仲軍に挑みかかり、
木曽方の西広助に討たれた。
すると家俊旧臣の杵渕小源太重光は、
亡き主君の仇を討たんとして広助に自ら戦いを挑み、
激闘の末に彼を討って報じ、
やがて木曽軍に囲まれて自害して果てたという。
この杵渕氏は篠ノ井杵渕の人である。
ただしその後杵渕氏がどうなったか明証がない。
今、土塁の一部が残っている館跡は地元では殿屋敷と呼ばれ、
伝承では戦国時代まで杵渕氏が住居したという。
参考書籍:北信濃の城

住所:長野市篠ノ井杵渕
「平家物語」や「源平盛衰記」によると、
養和元年(1181)6月,
越後の城資職(じょうすけもと)が率いる平家の大軍と
木曽義仲は川中島の南、
千曲川岸で戦った。
世にいう横田河原の合戦である。
平家の武士で更級郡の人富部三郎家俊は義仲軍に挑みかかり、
木曽方の西広助に討たれた。
すると家俊旧臣の杵渕小源太重光は、
亡き主君の仇を討たんとして広助に自ら戦いを挑み、
激闘の末に彼を討って報じ、
やがて木曽軍に囲まれて自害して果てたという。
この杵渕氏は篠ノ井杵渕の人である。
ただしその後杵渕氏がどうなったか明証がない。
今、土塁の一部が残っている館跡は地元では殿屋敷と呼ばれ、
伝承では戦国時代まで杵渕氏が住居したという。
参考書籍:北信濃の城
住所:長野市篠ノ井杵渕