2016/06/29
松代町西条295 にある曹洞宗のお寺。
永禄7年(1564)清野山城守之安開基、
節香徳忠の開山と伝えられている。
安永元年火災により諸堂を焼失、
本堂は安永2年(1773)の再建。
「つつじのお寺」と呼ばれている。
本堂前には童謡『お猿のかごや』の歌碑がある。



永禄7年(1564)清野山城守之安開基、
節香徳忠の開山と伝えられている。
安永元年火災により諸堂を焼失、
本堂は安永2年(1773)の再建。
「つつじのお寺」と呼ばれている。
本堂前には童謡『お猿のかごや』の歌碑がある。
2016/06/29
当初は照光寺と称し、真田信政の二男信守の菩提のため創建。
のちに廃寺となつたが真田信弘の冥福を祈るためこの寺を建立。
真田信就、信守、信弘および信弘の母、慈顔院の位牌がある。




のちに廃寺となつたが真田信弘の冥福を祈るためこの寺を建立。
真田信就、信守、信弘および信弘の母、慈顔院の位牌がある。
2016/06/29
松代町清野にある松井須磨子の墓所。
少しわかりにくいですが、
山に向かっていくと林正寺と松井須磨子墓所に行く立て看板があります。
その矢印の方向に行くと車で五分くらいのところにあります。
民家に看板があますので、
竹林の先1分くらいのところに墓所があります。
静にお参りしましょう。


少しわかりにくいですが、
山に向かっていくと林正寺と松井須磨子墓所に行く立て看板があります。
その矢印の方向に行くと車で五分くらいのところにあります。
民家に看板があますので、
竹林の先1分くらいのところに墓所があります。
静にお参りしましょう。
2016/06/23
西条西楽寺の末寺。
天正8年(1580)西楽寺一世名誉善室の開山。
慶長10年(1605)二世鑑貞が
夢のお告げで授かった石仏「おかんてんさん/鑑貞地蔵」は子育て仏。
孝行猿の墓もある。



住所
松代町松代紺屋町380
浄土宗のお寺。
天正8年(1580)西楽寺一世名誉善室の開山。
慶長10年(1605)二世鑑貞が
夢のお告げで授かった石仏「おかんてんさん/鑑貞地蔵」は子育て仏。
孝行猿の墓もある。
住所
松代町松代紺屋町380
浄土宗のお寺。
2016/06/23
本堂は長国寺にあった二代藩主信政の霊屋を移建したもので、
万治3年父信之の霊屋と同時に建てられた。
敷地内には松井須磨子の演劇碑が建てられている。





2016.6.22に行きましたが
あいにく工事中なので様子はわかりませんでした。
参考書籍
「信州松代」まち歩きガイドブック
住所 長野市松代町清野947
万治3年父信之の霊屋と同時に建てられた。
敷地内には松井須磨子の演劇碑が建てられている。
2016.6.22に行きましたが
あいにく工事中なので様子はわかりませんでした。
参考書籍
「信州松代」まち歩きガイドブック
住所 長野市松代町清野947
2016/06/23
本尊、聖観音菩薩は厄除け菩薩として知られています。
厨子扉は武田家の四ツ割葵の紋。
川中島合戦時、本尊が夢枕に立ち戦術を授けたという。
古くは大里山淳雲庵とも称した。

参道入り口には道祖神

お地蔵さま

急な石段を登ります。




春には桜がきれいに咲くんでしょう。


御朱印もいただけるようです。
詳しいことは案内の看板をご確認してください。
海抜367m。
信濃三十三観音札所めぐり四番札所
住所 松代清野清野宮村452
厨子扉は武田家の四ツ割葵の紋。
川中島合戦時、本尊が夢枕に立ち戦術を授けたという。
古くは大里山淳雲庵とも称した。
参道入り口には道祖神
お地蔵さま
急な石段を登ります。
春には桜がきれいに咲くんでしょう。
御朱印もいただけるようです。
詳しいことは案内の看板をご確認してください。
海抜367m。
信濃三十三観音札所めぐり四番札所
住所 松代清野清野宮村452
2016/06/20
栗田城は、現在「水内総社日吉大神社」。
近在には見られない高土塁が残っています。
別名堀之内城ともいい、
村上氏一族の栗田氏の館であった。
昭和初年の記録では、城の二重の堀がめぐり、
主郭約二一七メートル四方、外郭に至っては南北一、〇八六メートル、
東西約七〇六メートルという広大さだった。









栗田氏は善光寺や戸隠にも支配力を有した豪族で、
栗田の里栗田と戸隠の山栗田に分かれて繁栄した。
城の名は応安二年(1369)に初めて見え、
この年栗田氏は守護上杉朝房(うえすぎともふさ)に反抗して蜂起し、
10月に城の西木戸口などで交戦があったことが知られる。
下って弘治元年(1555)、
甲越両軍が犀川を挟んで対陣したとき、
栗田氏は武田方について旭山城に入り、
善光寺に陣を張る上杉勢をおおいに苦しめた。
この戦いののち栗田氏は善光寺本尊を奉じて甲斐に移ったため、
栗田城は実質的に廃されたとされる。
参考書籍:北信濃の城
近在には見られない高土塁が残っています。
別名堀之内城ともいい、
村上氏一族の栗田氏の館であった。
昭和初年の記録では、城の二重の堀がめぐり、
主郭約二一七メートル四方、外郭に至っては南北一、〇八六メートル、
東西約七〇六メートルという広大さだった。
栗田氏は善光寺や戸隠にも支配力を有した豪族で、
栗田の里栗田と戸隠の山栗田に分かれて繁栄した。
城の名は応安二年(1369)に初めて見え、
この年栗田氏は守護上杉朝房(うえすぎともふさ)に反抗して蜂起し、
10月に城の西木戸口などで交戦があったことが知られる。
下って弘治元年(1555)、
甲越両軍が犀川を挟んで対陣したとき、
栗田氏は武田方について旭山城に入り、
善光寺に陣を張る上杉勢をおおいに苦しめた。
この戦いののち栗田氏は善光寺本尊を奉じて甲斐に移ったため、
栗田城は実質的に廃されたとされる。
参考書籍:北信濃の城
2016/06/20
平林城は長野市平林の善立寺の前に石碑があります。


2016/06/20
現在は跡形もなくアパートが立ち並ぶ「押鐘城(おしがねじょう)」
場所は吉田1丁目。
近くには吉田公園、本城遊園地、ヤマダがあります。


場所は吉田1丁目。
近くには吉田公園、本城遊園地、ヤマダがあります。
2016/06/20
稲田の住宅地にある「稲田氏屋敷跡」

本堀氏が居城としてこの地を納めていた。
今は石碑と看板があります。

本堀氏が居城としてこの地を納めていた。
今は石碑と看板があります。