長野市川中島今里内後にある「内後館」
小田切氏上屋敷、殿屋敷


今里の信号より
西に向かい圓光寺の前を過ぎた道に入っていく。

狭い住宅地ですが車一台は通れます。

圓光寺には駿河守幸長のお墓があるそうです。

2017.9.23

長野市川中島町今里於下(おしも)にある「於下館」

場所は住宅地でわかりにくい。
旧於下公民館の西隣で、近く横の道沿いに看板があります。



住宅地なので道は狭いですが、
車はこの建物の横置くといいです。

川中島今里の於下集落にあり、
小田切氏の下屋敷と言われる館跡がある。
集落の於下も下屋から生まれた呼称とされ、
近くの隅舎、向倉、立見やぐら、中脊などの名が家号に残っている。



2017.9.24 信濃の山城と館2参照



バイパスから篠ノ井杵渕の典厩寺に向かう途中に
竹林(土塁)、神社、北村公民館付近にあったとされる、
水沢氏屋敷。







鞍骨山(くらぼねやま)の麓、
松代町の清野の大村地区にある古峰神社付近に、
清野氏の館であったという。



清野氏遺愛碑

長野市が見渡せ、
7月から8月に蓮の花が咲いています。





現在は荒堀公民館。
杵渕氏の従者荒堀内記屋敷


杵渕氏は比較的古くから名の知られる武士である。
「平家物語」や「源平盛衰記」によると、
養和元年(1181)6月,
越後の城資職(じょうすけもと)が率いる平家の大軍と
木曽義仲は川中島の南、
千曲川岸で戦った。
世にいう横田河原の合戦である。
平家の武士で更級郡の人富部三郎家俊は義仲軍に挑みかかり、
木曽方の西広助に討たれた。
すると家俊旧臣の杵渕小源太重光は、
亡き主君の仇を討たんとして広助に自ら戦いを挑み、
激闘の末に彼を討って報じ、
やがて木曽軍に囲まれて自害して果てたという。
この杵渕氏は篠ノ井杵渕の人である。
ただしその後杵渕氏がどうなったか明証がない。
今、土塁の一部が残っている館跡は地元では殿屋敷と呼ばれ、
伝承では戦国時代まで杵渕氏が住居したという。
参考書籍:北信濃の城

住所:長野市篠ノ井杵渕


篠ノ井駅に近い市街地にある布施氏館は、
内堀の地名を残し、明治頃までは堀の原形が残っていたらしいが、
今では狭い水路にある堀の痕跡を認めるにすぎない。
この館の主とされる布施氏は鎌倉時代に英多(あがた)庄
(長野市松代町)地頭職であった平林氏の一族で、
初めは山布施(長野市篠ノ井)に居住したため布施と称したという。
永享(えいきょう)9年(1437)の資料に村上頼清の使者として
布施伊豆守の名前が見えるが、
布施氏館に居たものかは確証がない。


館の跡地は現在は公民館、神社、駐車場になっている。






参考書籍:北信濃の城

稲田の住宅地にある「稲田氏屋敷跡」



本堀氏が居城としてこの地を納めていた。
今は石碑と看板があります。


長野市青木島町大塚の更北中の前にある
「大堀館跡」標石。

現在の更北中学校敷地で、
学校建設によってその跡を失い、
標石のみが置かれている。

別名「町田氏屋敷跡」

天文二十四年(1555)、武田晴信は犀川を挟んで、
長尾(上杉)景虎と200日も睨みあった。
武田方は大塚の御陣と称しているので、
晴信は大堀館にいたと察せられる。

参考書籍:北信濃の城(郷土出版社)





更北中の北側には土塁、堀等も見られます。





鍛冶屋敷は現在
川中島町御厨の法蔵寺の東にある伊勢神社。

おたやとも言われています。
※おたやは旅の者をとめる宿。




イチョウは長野市の指定。



奥に入ると天水窯の看板。










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