2016/07/28
松代付近の頑固な山城といえば、古くから
「一にはり山・二に尼巌・三に鞍骨」といわれていた。
尼巌城は松代の東方に烏帽子のように聳えたつ尼巌山の頂にあり、
西・南・東の三方が切り立った二段の岩壁に囲まれている。
平地からの比高は約四〇〇メートルと高い。
細い曲がりくねった岩下の道や豊富な石は、
守るためにもってこいの地形である。
城主は代々東条氏で、戦国時代は村上氏に属した。
いく度か武田信玄に誘われたが応じなかったので、
天文二二年(一五五三)、武田配下の真田幸隆の攻撃を受け、
敗れたのち越後の上杉謙信の下に走った。
信玄は尼巌城を修復して武田の番城とし、真田幸隆・小山田備中守に守らせた。
天正一一年(一五八三)、上杉景勝が北信へ進出して東条氏も一度は故郷に戻ったが、
のち景勝に従って会津へ移った。
東条氏の館跡は池田宮の鳥居先に、根小屋は東光寺の下にあった。
般若寺の東条氏の墓地には多くの立派な五輪塔が残って、往時の勢威をしのばせる。
西麓の長礼方面は城下町ができていて船蔵や遊女町もあったと伝えられ、
大町・荒町などの地名が残っている。
堅城として知られた尼巌城も水が乏しいのが泣きどころで、
米を馬にかけて水に見せかけたという白米城や、
女城主御安御前の伝説が残っている。
参考書籍:北信濃の城
大日池から見た尼巌山。

「一にはり山・二に尼巌・三に鞍骨」といわれていた。
尼巌城は松代の東方に烏帽子のように聳えたつ尼巌山の頂にあり、
西・南・東の三方が切り立った二段の岩壁に囲まれている。
平地からの比高は約四〇〇メートルと高い。
細い曲がりくねった岩下の道や豊富な石は、
守るためにもってこいの地形である。
城主は代々東条氏で、戦国時代は村上氏に属した。
いく度か武田信玄に誘われたが応じなかったので、
天文二二年(一五五三)、武田配下の真田幸隆の攻撃を受け、
敗れたのち越後の上杉謙信の下に走った。
信玄は尼巌城を修復して武田の番城とし、真田幸隆・小山田備中守に守らせた。
天正一一年(一五八三)、上杉景勝が北信へ進出して東条氏も一度は故郷に戻ったが、
のち景勝に従って会津へ移った。
東条氏の館跡は池田宮の鳥居先に、根小屋は東光寺の下にあった。
般若寺の東条氏の墓地には多くの立派な五輪塔が残って、往時の勢威をしのばせる。
西麓の長礼方面は城下町ができていて船蔵や遊女町もあったと伝えられ、
大町・荒町などの地名が残っている。
堅城として知られた尼巌城も水が乏しいのが泣きどころで、
米を馬にかけて水に見せかけたという白米城や、
女城主御安御前の伝説が残っている。
参考書籍:北信濃の城
大日池から見た尼巌山。
2016/07/25
旭山(783メートル)は長野市市街地から西方に
望まれれる印象的な三角形の山である。
東方中腹に平柴集落のある台地があり、
山裾を裾花川が巻いている。
山塊には山城が三つあり、山頂を旭山または旭城、
中腹大黒山を大黒山城、
台地突端の小柴見地籍にある城を小柴見城と呼んでいる。
中世信濃の一方の中心地善光寺とその門前に近いことから、
この地で信濃史に関わる重要な事件が起こっている。
南北朝時代には、
平芝(平柴)に守護が政務をとる守護所があった(「市河文書」)。
嘉慶元年(元中4年、1387)には国人連合の軍勢が守護所を攻めた。
守護所の地は三城のいずれもあるらしい。
次いで、室町時代の文安3年(1446)、小笠原氏は惣領相続係争の末、
宗康と持は武力で衝突、漆田(長野市中御所付近)から大黒塚(大黒城らしい)で合戦し
持長が勝利した。
しかしこれにより信濃の守護大名小笠原氏は分裂が決定的になり、
この戦いで信濃の戦国乱世ほ促進させる出発点になった。
戦国時代の甲越戦争では山頂の旭山城が両軍の拠点となり、
大規模な戦国城郭に改修された。
弘治元年(1555)に栗田氏が武田について旭山城に入り、
武田晴信はこれに兵三〇〇〇、弓八〇〇、鉄砲三〇〇を送り込んだ(「妙法寺記」)。
苦しんだ上杉景虎は、
和議が成ったあとに城を破却した(「歴代古案」)が、
翌年葛山城が落ちると今度は旭山城を再興し本陣としている。
書籍「北信濃の城」より。
アクセス
長野県庁前の交差点から山側(西側)に進むと裾花川に突き当たるので左折、
次の相生橋の信号を右折。
橋を渡った左手に郵便局があるので右手前に行くと平柴地区に入ります。
「朝日山観世音堂」への案内がある。
細い路地を対向車に注意しながら行くと朝日山観世音堂があります。
そこに駐車場がありますので止めます。
※上にも路肩に駐車スペースがありますがこちらのほうが無難。
朝日山観世音堂の駐車場よりさらに上に歩くこと5分くらいで
「旭山自然探勝路」の看板あり、右折すると遊歩道の入口があります。
長野県庁前の交差点から見える旭山。

朝日山観世音堂

朝日山観世音堂からの眺め

看板あり、ここから城跡までは0.5km

1人がやっと通れるくらいの遊歩道。
足を踏み外すと危ないです。
距離はありませんが遊歩道は狭いし急坂のため気を付けてください。



あと0.3km付近に平らなところがあります。

城跡手前には左右に道が分かれていますが、右手に行くと城跡に到着します

下から見た城跡。

望まれれる印象的な三角形の山である。
東方中腹に平柴集落のある台地があり、
山裾を裾花川が巻いている。
山塊には山城が三つあり、山頂を旭山または旭城、
中腹大黒山を大黒山城、
台地突端の小柴見地籍にある城を小柴見城と呼んでいる。
中世信濃の一方の中心地善光寺とその門前に近いことから、
この地で信濃史に関わる重要な事件が起こっている。
南北朝時代には、
平芝(平柴)に守護が政務をとる守護所があった(「市河文書」)。
嘉慶元年(元中4年、1387)には国人連合の軍勢が守護所を攻めた。
守護所の地は三城のいずれもあるらしい。
次いで、室町時代の文安3年(1446)、小笠原氏は惣領相続係争の末、
宗康と持は武力で衝突、漆田(長野市中御所付近)から大黒塚(大黒城らしい)で合戦し
持長が勝利した。
しかしこれにより信濃の守護大名小笠原氏は分裂が決定的になり、
この戦いで信濃の戦国乱世ほ促進させる出発点になった。
戦国時代の甲越戦争では山頂の旭山城が両軍の拠点となり、
大規模な戦国城郭に改修された。
弘治元年(1555)に栗田氏が武田について旭山城に入り、
武田晴信はこれに兵三〇〇〇、弓八〇〇、鉄砲三〇〇を送り込んだ(「妙法寺記」)。
苦しんだ上杉景虎は、
和議が成ったあとに城を破却した(「歴代古案」)が、
翌年葛山城が落ちると今度は旭山城を再興し本陣としている。
書籍「北信濃の城」より。
アクセス
長野県庁前の交差点から山側(西側)に進むと裾花川に突き当たるので左折、
次の相生橋の信号を右折。
橋を渡った左手に郵便局があるので右手前に行くと平柴地区に入ります。
「朝日山観世音堂」への案内がある。
細い路地を対向車に注意しながら行くと朝日山観世音堂があります。
そこに駐車場がありますので止めます。
※上にも路肩に駐車スペースがありますがこちらのほうが無難。
朝日山観世音堂の駐車場よりさらに上に歩くこと5分くらいで
「旭山自然探勝路」の看板あり、右折すると遊歩道の入口があります。
長野県庁前の交差点から見える旭山。
朝日山観世音堂
朝日山観世音堂からの眺め
看板あり、ここから城跡までは0.5km
1人がやっと通れるくらいの遊歩道。
足を踏み外すと危ないです。
距離はありませんが遊歩道は狭いし急坂のため気を付けてください。
あと0.3km付近に平らなところがあります。
城跡手前には左右に道が分かれていますが、右手に行くと城跡に到着します
下から見た城跡。
2016/07/21
現在は荒堀公民館。
杵渕氏の従者荒堀内記屋敷

杵渕氏の従者荒堀内記屋敷
2016/07/21
杵渕氏は比較的古くから名の知られる武士である。
「平家物語」や「源平盛衰記」によると、
養和元年(1181)6月,
越後の城資職(じょうすけもと)が率いる平家の大軍と
木曽義仲は川中島の南、
千曲川岸で戦った。
世にいう横田河原の合戦である。
平家の武士で更級郡の人富部三郎家俊は義仲軍に挑みかかり、
木曽方の西広助に討たれた。
すると家俊旧臣の杵渕小源太重光は、
亡き主君の仇を討たんとして広助に自ら戦いを挑み、
激闘の末に彼を討って報じ、
やがて木曽軍に囲まれて自害して果てたという。
この杵渕氏は篠ノ井杵渕の人である。
ただしその後杵渕氏がどうなったか明証がない。
今、土塁の一部が残っている館跡は地元では殿屋敷と呼ばれ、
伝承では戦国時代まで杵渕氏が住居したという。
参考書籍:北信濃の城

住所:長野市篠ノ井杵渕
「平家物語」や「源平盛衰記」によると、
養和元年(1181)6月,
越後の城資職(じょうすけもと)が率いる平家の大軍と
木曽義仲は川中島の南、
千曲川岸で戦った。
世にいう横田河原の合戦である。
平家の武士で更級郡の人富部三郎家俊は義仲軍に挑みかかり、
木曽方の西広助に討たれた。
すると家俊旧臣の杵渕小源太重光は、
亡き主君の仇を討たんとして広助に自ら戦いを挑み、
激闘の末に彼を討って報じ、
やがて木曽軍に囲まれて自害して果てたという。
この杵渕氏は篠ノ井杵渕の人である。
ただしその後杵渕氏がどうなったか明証がない。
今、土塁の一部が残っている館跡は地元では殿屋敷と呼ばれ、
伝承では戦国時代まで杵渕氏が住居したという。
参考書籍:北信濃の城
住所:長野市篠ノ井杵渕
2016/07/14
2016/07/10
延暦年間(790年頃)坂上田村麻呂が
祈願所として堂塔を建立との伝。
本尊は行基作とも伝えられている一木造りの千手観音(秘仏)、
4mと巨大な像。
参道百観音小堂は1999年焼失。
信濃三十三番十一番札所。
境内には車で入らないようにということで
手前に止めました。
※山道を20分くらい歩きましたが奥まで車で入れるような気がします。
行かれる方はご自身の判断に任せます。

陶隆窯に向かっていくとその先300mにあります。

途中は石垣がありました。












かなり細い道を上がってきますので車の運転には気を付けてください。
でも景色は最高ですよ。

祈願所として堂塔を建立との伝。
本尊は行基作とも伝えられている一木造りの千手観音(秘仏)、
4mと巨大な像。
参道百観音小堂は1999年焼失。
信濃三十三番十一番札所。
境内には車で入らないようにということで
手前に止めました。
※山道を20分くらい歩きましたが奥まで車で入れるような気がします。
行かれる方はご自身の判断に任せます。
陶隆窯に向かっていくとその先300mにあります。
途中は石垣がありました。
かなり細い道を上がってきますので車の運転には気を付けてください。
でも景色は最高ですよ。
2016/07/10
菅間集落の先にある古刹。
旧は真言宗練光寺の末で、
清滝観音堂の別寺。
文永(1264~1274)の頃、
東条左衛門尉義俊が再建。
元禄6年(1693)に円如坊阿闍梨勝誉が再興。
現本堂は嘉永6年(1853)の建築。
入口はふさがれていて近くに行けませんでした。

旧は真言宗練光寺の末で、
清滝観音堂の別寺。
文永(1264~1274)の頃、
東条左衛門尉義俊が再建。
元禄6年(1693)に円如坊阿闍梨勝誉が再興。
現本堂は嘉永6年(1853)の建築。
入口はふさがれていて近くに行けませんでした。
2016/07/10
2016/07/05
創建は清和天皇の第三皇子貞元親王が開基と伝えられている。
貞観年間(859-876)に建立。
寛永元年(1624)に移建。
宗派:真言宗智山派。
小県郡海野郷海善村に創建、移封にともない白鳥神社とともに移し、
同社別当とした。




貞観年間(859-876)に建立。
寛永元年(1624)に移建。
宗派:真言宗智山派。
小県郡海野郷海善村に創建、移封にともない白鳥神社とともに移し、
同社別当とした。
2016/07/05
白鳥神社は松代警察学校の南側の
ノロシ山にある神社。
この神社の祭神は日本武尊の真田家の祖と伝承される貞元・貞保親王とともに
真田信之公(松代藩第一代)の霊を合わせてお祭りした神社であります。
昔は小県郡海野郷にあったのを、
真田信之公が松代に移った貫永元年(1624)に今の位置に移しました。
松代町には氏子の家が多く、春と秋に例大祭が行われている。
(看板より)






住所:長野県長野市松代町西条3674
ノロシ山にある神社。
この神社の祭神は日本武尊の真田家の祖と伝承される貞元・貞保親王とともに
真田信之公(松代藩第一代)の霊を合わせてお祭りした神社であります。
昔は小県郡海野郷にあったのを、
真田信之公が松代に移った貫永元年(1624)に今の位置に移しました。
松代町には氏子の家が多く、春と秋に例大祭が行われている。
(看板より)
住所:長野県長野市松代町西条3674