雨宮にある唐崎城は、
墓地の前に山道がありそこから登っていきます。





天城山につづく案内もあります。


長野市東和田にある運動公園一角にあったと伝えられる和田城(東和田館)。
該地は県営野球場の東側の部分と言われている。

テニスコートの横にある道路から入ります。
公園内にある水路は、城跡に引水されたむ名残であろうとされています。









2017.9.23 信濃の山城と館2参照




塩崎城は長谷寺の裏山にあります。
篠ノ井塩崎にある長谷寺を目指して行きます。
駐車場は長谷寺の駐車場をお借りします。
小高い所にあり高速道路も見えました。
満車でなければ一番上にある第一駐車場に止めましょう。

参道へ向かう案内板を見ながら進みます

観音堂右手から入るとところどごろに案内板あります



石仏がお出迎えして城まで案内していただけます。



鉄塔の下をくぐり


進みます

途中で大きな石がありますのでこちらを左に行きました。

あと100m



2郭

1郭

小高い山ですが、思っていたより結構な急斜面です。








こうして上から見渡していたんでしょうか。

くだりも結構きついのでここまで来れば安心します。


塩崎城は(五万長者城、白助城)は、南南東1kmに塩崎新城(赤沢城)、南南西1.5kmには小坂城があり、
その山麓には稲荷山城があります。


築城ははっきりしないが、応永7年の大塔の合戦にはあったことがわかるのでそれ以前になる。
小笠原氏の一族の赤沢氏の要害と言われている。
応仁、文明に至って府中小笠原と伊那小笠原の相争うことになり、
塩崎の赤沢氏も勢力を失い、桑原氏がこれに代わり塩崎、四宮を領有し塩崎氏を名乗る。

武田氏の時代の塩崎氏についてははつきりとしないし、
塩崎城がどうなつていたか不明。



参考書籍:信濃の山城と館第2巻







宇木の宇達神社西南、長野女子高校の所に相木城があったが、
現在は同校と長野女子短大の校地になり、
その遺構が失われ、
校門傍に残欠と塁上の稲荷社、堀形が残る。

古老伝に武田氏の臣相木市兵衛在城すと至ふ、事跡不詳」とあり。
長野女子高校門傍に残る土塁上に
「相木市兵衛政友之城跡」碑が稲荷社とともにある。

昭和30年頃までは土塁がよく残っていて、
城跡も確認できたという。





参考書籍:

西尾張部の尾張城跡公園。




築城年月日及び城主姓名不詳。
「科野佐々礼石」には、
尾張部三郎がここに居館して、当村一村を支配したが、
永禄のはじめ武田氏に降って、
この屋敷を引き払ったとある。

標高342m。

築城年月日及城主不明。
里俗伝に応永中(1394-1427)井上左馬介光頼舎遠江守居城し、
後村上氏の幕下となる。事跡不詳。
弘治永禄に至り武田氏の所有となる。
本城には、天正10年上杉景勝の所有になり、
その幕下本田安房守が居住したとあるが、
上杉氏が会津に去ると本田氏もこれに従って廃城になった。




本丸の南東隅は柳原中俣の城山稲荷社。
各曲輪は城跡の道でわかる。
昭和の頃までは身の丈ほどの土塁や堀が残されていたが
道路拡張のため失われて今はない。

標高337m

長野から須坂方面に行く途中のベイシアと柳原駅入口の信号機の間にある二つの
信号の間にある道から右に入っていく。
右手に小さい神社がありますのでその脇に数台車が止められます。

2017.9.23 信濃の山城と館2,参照


タグ :中俣城

松代町東寺尾にある寺尾城。



















階段は狭くて落ち葉が多いので滑りやすいです。

 松代付近の頑固な山城といえば、古くから
「一にはり山・二に尼巌・三に鞍骨」といわれていた。
尼巌城は松代の東方に烏帽子のように聳えたつ尼巌山の頂にあり、
西・南・東の三方が切り立った二段の岩壁に囲まれている。
平地からの比高は約四〇〇メートルと高い。
細い曲がりくねった岩下の道や豊富な石は、
守るためにもってこいの地形である。
 城主は代々東条氏で、戦国時代は村上氏に属した。
いく度か武田信玄に誘われたが応じなかったので、
天文二二年(一五五三)、武田配下の真田幸隆の攻撃を受け、
敗れたのち越後の上杉謙信の下に走った。
信玄は尼巌城を修復して武田の番城とし、真田幸隆・小山田備中守に守らせた。
天正一一年(一五八三)、上杉景勝が北信へ進出して東条氏も一度は故郷に戻ったが、
のち景勝に従って会津へ移った。
 東条氏の館跡は池田宮の鳥居先に、根小屋は東光寺の下にあった。
般若寺の東条氏の墓地には多くの立派な五輪塔が残って、往時の勢威をしのばせる。
西麓の長礼方面は城下町ができていて船蔵や遊女町もあったと伝えられ、
大町・荒町などの地名が残っている。
 堅城として知られた尼巌城も水が乏しいのが泣きどころで、
米を馬にかけて水に見せかけたという白米城や、
女城主御安御前の伝説が残っている。
参考書籍:北信濃の城

大日池から見た尼巌山。


旭山(783メートル)は長野市市街地から西方に
望まれれる印象的な三角形の山である。
東方中腹に平柴集落のある台地があり、
山裾を裾花川が巻いている。
山塊には山城が三つあり、山頂を旭山または旭城、
中腹大黒山を大黒山城、
台地突端の小柴見地籍にある城を小柴見城と呼んでいる。
中世信濃の一方の中心地善光寺とその門前に近いことから、
この地で信濃史に関わる重要な事件が起こっている。
南北朝時代には、
平芝(平柴)に守護が政務をとる守護所があった(「市河文書」)。
嘉慶元年(元中4年、1387)には国人連合の軍勢が守護所を攻めた。
守護所の地は三城のいずれもあるらしい。
 次いで、室町時代の文安3年(1446)、小笠原氏は惣領相続係争の末、
宗康と持は武力で衝突、漆田(長野市中御所付近)から大黒塚(大黒城らしい)で合戦し
持長が勝利した。
しかしこれにより信濃の守護大名小笠原氏は分裂が決定的になり、
この戦いで信濃の戦国乱世ほ促進させる出発点になった。
 戦国時代の甲越戦争では山頂の旭山城が両軍の拠点となり、
大規模な戦国城郭に改修された。
弘治元年(1555)に栗田氏が武田について旭山城に入り、
武田晴信はこれに兵三〇〇〇、弓八〇〇、鉄砲三〇〇を送り込んだ(「妙法寺記」)。
苦しんだ上杉景虎は、
和議が成ったあとに城を破却した(「歴代古案」)が、
翌年葛山城が落ちると今度は旭山城を再興し本陣としている。
書籍「北信濃の城」より。

アクセス
長野県庁前の交差点から山側(西側)に進むと裾花川に突き当たるので左折、
次の相生橋の信号を右折。
橋を渡った左手に郵便局があるので右手前に行くと平柴地区に入ります。
「朝日山観世音堂」への案内がある。
細い路地を対向車に注意しながら行くと朝日山観世音堂があります。
そこに駐車場がありますので止めます。
※上にも路肩に駐車スペースがありますがこちらのほうが無難。
朝日山観世音堂の駐車場よりさらに上に歩くこと5分くらいで
「旭山自然探勝路」の看板あり、右折すると遊歩道の入口があります。

長野県庁前の交差点から見える旭山。

朝日山観世音堂

朝日山観世音堂からの眺め

看板あり、ここから城跡までは0.5km

1人がやっと通れるくらいの遊歩道。
足を踏み外すと危ないです。
距離はありませんが遊歩道は狭いし急坂のため気を付けてください。





あと0.3km付近に平らなところがあります。

城跡手前には左右に道が分かれていますが、右手に行くと城跡に到着します

下から見た城跡。




源平の横田河原合戦や応永七年(1400)の大塔合戦、
さらに甲越戦争で使用されたとされる横田城、
大塔合戦では守護方が立てこもった大塔城(大塔古要害)なども館とすれば
不明な点が多い。

横田城今、篠ノ井合会にある館跡のことを指しているが、
横田の地は南方一キロほど離れており、
別に砦跡の伝承があった節がある。
会集落は全体の二重の水路に囲まれた環濠集落のような形をしており、
中世後期の典型的な館跡であって、
戦時の陣城ではないらしいが、
その主は不明である。








土塁が見られます。

横田にある観音寺(横田418)




参考書籍:北信濃の城


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