栗田城
2016/06/20
栗田城は、現在「水内総社日吉大神社」。
近在には見られない高土塁が残っています。
別名堀之内城ともいい、
村上氏一族の栗田氏の館であった。
昭和初年の記録では、城の二重の堀がめぐり、
主郭約二一七メートル四方、外郭に至っては南北一、〇八六メートル、
東西約七〇六メートルという広大さだった。









栗田氏は善光寺や戸隠にも支配力を有した豪族で、
栗田の里栗田と戸隠の山栗田に分かれて繁栄した。
城の名は応安二年(1369)に初めて見え、
この年栗田氏は守護上杉朝房(うえすぎともふさ)に反抗して蜂起し、
10月に城の西木戸口などで交戦があったことが知られる。
下って弘治元年(1555)、
甲越両軍が犀川を挟んで対陣したとき、
栗田氏は武田方について旭山城に入り、
善光寺に陣を張る上杉勢をおおいに苦しめた。
この戦いののち栗田氏は善光寺本尊を奉じて甲斐に移ったため、
栗田城は実質的に廃されたとされる。
参考書籍:北信濃の城
近在には見られない高土塁が残っています。
別名堀之内城ともいい、
村上氏一族の栗田氏の館であった。
昭和初年の記録では、城の二重の堀がめぐり、
主郭約二一七メートル四方、外郭に至っては南北一、〇八六メートル、
東西約七〇六メートルという広大さだった。
栗田氏は善光寺や戸隠にも支配力を有した豪族で、
栗田の里栗田と戸隠の山栗田に分かれて繁栄した。
城の名は応安二年(1369)に初めて見え、
この年栗田氏は守護上杉朝房(うえすぎともふさ)に反抗して蜂起し、
10月に城の西木戸口などで交戦があったことが知られる。
下って弘治元年(1555)、
甲越両軍が犀川を挟んで対陣したとき、
栗田氏は武田方について旭山城に入り、
善光寺に陣を張る上杉勢をおおいに苦しめた。
この戦いののち栗田氏は善光寺本尊を奉じて甲斐に移ったため、
栗田城は実質的に廃されたとされる。
参考書籍:北信濃の城